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3,4年生の方へ

講義名 科学哲学特論Ⅶ
年度 2009
区分 夏学期:通常講義
担当 植村 恒一郎
詳細

講義題目 :言語・コミュニケーション・パフォーマティヴ
授業の目標・概要 :「理性そのものが私たちに、多くのことを偶然にゆだねるようにさせているのですから」(ルソー『新エロイーズ』)

ルソーのこの言葉は、言語の本性を考えるときにも参考になる。たとえば、一つの文章の意味というものは決まっているのだろうか? 「私の娘は男です」という文はどうか。「私の娘は、男まさりで元気がよくて・・・」という比喩的な意味の文だろうか。そういう場合もありうるが、これは中年女性たちの会話の一コマである。「うちの息子に、女の子が生まれました」というA夫人の発話を受けて、B夫人が答えたのである。このようなコンテクスに置いてみれば、一見矛盾のようにみえる「私の娘は男です」も、まったく自然な文になる。

この講義では、デリダの「引用」概念や、デリダ=サール論争を手がかりに、言語とは偶然の中に開かれたものであり、どこまでも未完結なものであることを探ってみたい。
授業のキーワード:言語、自由、偶然性、ジェンダーとセックス
授業計画: デリダとアメリカの分析哲学者サールとの論争はよく知られている。この論争は、文の「文字通りの意味」と「比喩的な意味」の区別にも関わる重要なもので、言語の本性をどう考えるかという重要な哲学的論点を提起している。一般には、デリダが「圧勝」した論争のように言われているが、そう単純でもない。論争を受けてあらためてデリダを批判したカヴェルの『哲学の声』も翻訳されたので、オースティンの「言語行為論」にも立ち返りながら、冷静にこの論争から学んでみたい。

また、メタファーの本性をめぐるデイヴィドソンやサールの議論、さらにはジェンダーとセックスの区別をめぐるジュディス・バトラーの「パフォーマティヴとしてのジェンダー」などについても考えてみたい。
授業の方法 : 授業は講義形式で行う。
成績評価方法 : 出席と学期末のレポートによる。
教科書 : 教科書は用いない。毎回プリントを配布する。
参考書:

ジャック・デリダ『有限責任会社』(法政大学出版局)
J.L.オースティン『言語と行為』(大修館書店)
スタンリー・カヴェル『哲学の<声> デリダのオースティン批判論駁』(春秋社)
ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』(青土社)
佐々木健一編訳『創造のレトリック』(勁草書房)
時枝誠記『国語学原論(上下)』(岩波文庫)
森本浩一『デイヴィドソン』(シリーズ・哲学のエッセンス NHK出版)

履修上の注意 :この講義には前提知識はまったく不要です。哲学は「ゼロから思考を立ち上げる」のが醍醐味だから。
関連ホームページ: http://d.hatena.ne.jp/charis/
その他 : 自分のブログ(上記ホームページ)で、書評や哲学の議論も行っています。