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推薦者

廣野 喜幸

■ 一般的に

 哲学の一つの典型は、ある発想の下に徹底的に考えぬいてみることにある。若いうちにこうした営為に没入してみることは、科学史・科学論に興味を持っている諸君にも非常に有意義であろう。とはいえ、私はこの読書案内で、カント『純粋理性批判』やフッサール『イデーン』、ブロッホ『希望の原理』などを列挙しようとは思わない。
 私たちは2-4年生のころ、廣松渉先生から『純粋理性批判』を原書で読むことを求められたが、近年の読書離れを想起すると、2-4年生諸君を念頭としたこの案内に、かように浩瀚な書名を徒にあげることは、かえって意欲を殺ぐおそれなしとしない。こうしたタイプの著作は長い期間をかけて丁寧に読み進めていってほしい。(その後実情を察した廣松さんは『プロレゴーメナ』を翻訳で読む程度にトーンダウンしてくれた。)
 ここでは、私が2-4年生ころ読んで印象に残ったものの中から、徹底的な思索の醍醐味を堪能できる比較的小振りな著作をまずあげることにしたい

 大森荘蔵『知の構築とその呪縛』(ちくま学芸文庫、1994)
 科学史を舞台に、大森哲学が華麗な舞を見せる。「活物的自然観から死物的自然観へ」という発想で科学史(自然認識の歴史)を論じきったのが本書である。ご堪能あれ。

 デカルト『方法序説』岩波文庫、1997年。
 私が初めて通読した哲学書。「もの」とは空間的延長であるという発想を貫くと、動物は機械と同じで、動物を殺すことは機械を壊すことを質的に同じになる。ある発想の下に徹底的に考えぬくことのラジカルさを、その危険性とともに看取してほしい。デカルトのこの側面を解毒するためには、ドゥグラツィア『動物の権利』(戸田清訳、岩波書店、2003年)がおすすめ。

 サルトル『実存主義とは何か』人文書院、1996年。
「本質は実存に先立つ」という発想を突き詰めるとどうなるか。現在、実存主義は過去のものになった感があるが、哲学書は流行で紐とくものではあるまい。

 オースティン『言語と行為』坂本百大訳、大修館書店。
「言葉とは行為の記述ではなく、行為そのものである」という発想下で徹底した検討がなされる。最初半信半疑だった言語=行為説が説得的に思えてくる過程はスリリングである。

 ムーア『倫理学原理』深谷昭三訳、三和書籍、1977年。
 ムーアはヴィトゲンシュタインの前任者。言語分析を遂行すると、「黄色い」と「よい」は基本的に同じ振る舞いをする。この発想は、倫理学そのものを否定しかねないラジカルさをもつ。ムーアの本書によって、20世紀英米系倫理学は言語分析へとなびいたのだが、次第に瑣末化・スコラ哲学化し、脳死・臓器移植にどう取り組むかといった現実の問題に対処する力をなくし、批判を浴びることとなった。今日からすると、英米系倫理学の脆弱化を招いたとも言えるだろうが、しかし本書は確かに画期ではあった。

 ネ―ゲル『コウモリであるとはどのようなことか』永井均訳、勁草書房、1989年。

 再度、20世紀英米系倫理学が現実の倫理的問題への接近を図るようなった嚆矢の一つが本書である。一度言語分析をかいくぐったあとでの英米系倫理学の成熟ぶりの一端をうかがうことができる。今日からすると応用倫理学興隆の先駆であったともみなせるだろう。応用倫理学はそれまでの倫理学に対して自らを「大人の倫理学」だと言う。『方法序説』の項目でも述べたが、一つの発想を徹底した思考を現実にあてはめるのは、ときに非常に危険でもある。こうした危険性に頓着しないのが「子供の哲学」とでも言えようか。一つの発想を徹底することの醍醐味とともに、バランス感覚のよさ、「中庸の徳」の重要性にも思いを致すことができるだろう。

 上記では訳書をあげたが、言語分析に関する書物を訳書のみ読むのは疑問である。たとえば、ネーゲルの訳者である永井さんも注をつけているが、ある論文はethicsという英語が倫理と倫理学の両者の意味をもつことが分析上の要となっている。しかし、日本語では両者が別の言葉で表されるため、この論考は訳者の注釈を必要たらしめてしまっている。やはり適宜原書にあたってほしい。なお、せちがらい世の中であるため、英米日の倫理学科の学生でも、『倫理学原理』は最初の数章を読むだけで済ませているようだ。
 ちなみにhistoryは歴史および歴史学、evolutionは進化および進化学の意味をもつ。学問の対象と学問自体が同一なのはなぜだろうか。

 透徹した思考に成熟したバランス感覚が伴えば、科学史・科学論を専攻する人間にとって、まさに鬼に金棒である。

 そこで、次に哲学と科学史の橋渡しとして以下をどうぞ。

 廣松渉『科学の危機と認識論』紀伊国屋書店、1995年。
 大森さんの『知の構築とその呪縛』同様、科学史を舞台にした哲学といった趣をもつのが本書である。切れ味の鋭い分析が味わえる。

 坂本賢三『機械の現象学』岩波書店、1975年。
 当時の論壇時評で、「昨今、真の哲学は職業的哲学者ではなく、他の分野の人々の思索に見られ、その一つが本書である」と評された本。哲学と科学史・技術史と(現代で言えば)科学技術社会論の一つの融合が、坂本さんの一連の著作(『現代科学をどうとらえるか』講談社現代新書、1978年;『科学思想史』岩波全書、1984年;『先端技術のゆくえ』岩波新書、1987年)には見られる。

 広重徹『科学の社会史』岩波現代文庫、2002年;古川安『科学の社会史』2001年、南窓社。
 同様に、哲学と科学史・科学技術社会論の総合的な形を示したのが広重の本書である。これについては他の教員も読書案内で触れているので、そちらも参照してほしい。同じタイトルの古川さんの本も必読文献の一つ。特に戦争と科学に関する章は、現在でも日本語で書かれた最上のものであろう。

 カンギレム『科学史・科学哲学』金森修訳、法政大学出版局、1991年。
 哲学と科学史・科学技術社会論の見事な融合は、クーンやバシュラール、ファイヤアーベントにも見られる。科学技術論コースに在籍する以上、クーンの『科学革命の構造』を読んでいないのは恥ずかしい。クーンは『本質的緊張』など他にも味読すべきものも多い。やはり原著をお薦めする。ただ、クーンやバシュラールを読みこなすには物理学の素養が必要であり、生命科学系の科学史・科学論に興味を持つ者にとっては、必ずしもとりつきやすくはない。そこでエピステモロジスト(フランス科学認識論者)の著作を薦めたい。フランスの哲学の一派をなすエピステモロジーの特徴は、科学史と哲学の独特な融合にある。その中心人物の一人がカンギレムであり、本書は論文集である。興味をもった論文から読みはじめるとよい。分かりやすいとは到底言えない。中村禎里・川喜田愛郎・鈴木善次・長野敬・筑波常治・中川米造といった諸先生の書物で基礎固めをしてからとりかかるのが、迂遠なようでかえって効率的かもしれない。
 ある論文に興味をもったら、関連する論考がなされている『正常と病理』(滝沢武久訳、法政大学出版局、1987年)・『反射概念の形成』(金森修訳、法政大学出版局、1988年)、あるいは『生命の認識』(杉山吉弘訳、法政大学出版局、2002年)が次のステップとなる。

 以上をきっかけに、各自の問題意識から科学技術論コースにおける勉学が覆う守備範囲の広い読書空間に乗り出してもらえると、非常に嬉しい

■ 生物学史について

 中村禎里『生物学を創った人々』(みすず書房、2000)
 生物研究に携わった主要な人々の評伝集であり、生物学史の入門にはうってつけであろう。廣野と同世代の者には、本書の旧版(日本放送出版協会、 1974)でhistory and philosophy of biologyのおもしろさを知り、この道に入ったという人も多い。これに興味をもったら、『生物学の歴史』(河出書房新社、1983)や『血液循環の発見― ウイリアム・ハ-ヴイの生涯』(岩波新書、1977)等に読み進むとよいだろう。

 スティーブン・グールド『ダーウィン以来―進化論への招待』(浦本昌紀・寺田鴻訳、ハヤカワ文庫、1995)
 本書に限らず、グールドのエッセイ・シリーズはすべて推したい。エッセイを気楽に読み通すうちに、進化学・生物学、そして進化学史を中心とした生物学史・地質学史の先端研究の様相が頭に染み込んでくるだろう。

 ピ-タ-・ボウラー『進歩の発明』(岡嵜修訳、平凡社、1995)
<進化論を社会に適用したのが社会進化論であり、優生思想である>といった、生物学史の地道な研究からは到底受け入れられない言説が、いまだに世間にまかりとおっている。そうした言説を解毒するのに非常によいのが本書である。狭い進化学史の枠を越えた、生命に関する科学思想史の良書であろう。

 ジェラルド・ギーソン『パストゥール』(長野敬・太田英彦訳、青土社、2000)
 川喜田愛郎『パストゥ-ル』(岩波新書評伝選、1995)と読み比べると、両書からは、まったく違ったパストゥ-ル像が立ち現れてくるのに驚くであろう。綿密な研究によりパストゥ-ル像を一新したのが本書である。しかし、私にはこれがパストゥール研究の決定版だとは思えない節がある。本書を乗り越えるようなパストゥール研究がなされなければなるまい。


■ 医学史・医学論

 ミシェル・フ-コ-『臨床医学の誕生』(神谷美恵子訳、みすず書房、1971)
 フーコーの哲学的医学史の登場以来、近代医学史・公衆衛生学史は、本書を避けては通れなくなった。読みやすいとは決して言えないが、読了した暁には、医学の歴史がまったく新たな視野のもとに開かれるであろう。

 児玉善仁『「病気」の誕生―近代医療の起源』(平凡社、1998)
 フーコー的近代医学史・公衆衛生学史の研究が流行っている。しかし、フーコーの哲学的医学史はあくまで彼の哲学に則ったものでしかない。フーコーの前掲書からのみ近代医学の誕生をイメージするのは好ましくない。本書とフーコーを同時に読むことによって、近代医学の系譜の多様性が認識できるであろう。

 川喜田愛郎『近代医学の史的基盤』(岩波書店、1977)
 日本語で書かれた西洋医学史の通史で、本書にまさるものはない。医学史事典としても使えるほどinformativeな書物である。大部なので読みやすいとは決して言えないが、読了した暁には、医学史に対する見識とは何かが分かってくるであろう。

 中川米造『医学の不確実性』日本評論社、1996年。
 軽く読み進められる敷居の低い書籍でありながら、読み直すといまだにいろいろと教えられる。『医学をみる眼』(NHKブックス、1970年)・『医療の原点』(岩波書店、1996年)も読み通すと、医学史・医学論の基本視座がすらすらと頭に入ってくるはずである


追記1)他にも、科学技術倫理・科学技術社会論・応用倫理学/実践倫理学の分野で勧めたい書物は多いが、今回は主として生物学史・医学史に限ることにした。他の分野については、次の機会を待つことにしたい。

追記2)生物学史・医学史の分野は、必読文献があり、基本書があり、上級者向けの文献があり......という具合に整然としているわけではない。自分の興味を抱いた分野を多読することが重要である。上記はあくまでも「とっかかり」にすぎないことを強調しておきたい。

なお、中村先生には、他に『生物学と社会』(みすず書房、1970)、『日本のルィセンコ論争』(新版、みすず書房、1997)等がある。中村先生自身は、『危機に立つ科学者―  1960年代の科学者運動』(1976)に愛着があるそうだ。今日手に入りにくくなったものも多いが、いずれも読んだおきたい本である。

鈴木・長野・筑波の諸先生の著作については、具体名をあげそこなった。みなさんで、適宜、リサーチしていただけるとありがたい。